思考の鎖

ゆるし 海

今朝は6時に目を覚ました。
いつものように座り、目を閉じた。あまり浮かぶものはなかったので、しばらくして慈悲の言葉を唱え始めた。

眠気があったのか、途中で言葉が止まってしまうことがあった。思い直して、唱え続けた。最後まで唱えてから、しばらく目をつぶり続けていた。
遠くで走る車の音が少し気になったが、それもしばらくして気にならなくなった。左の耳の方で少し耳鳴りのようなものがあった。それもすぐ消えた。
呼吸に集中していたが、いつもよりほんの少しだけ集中力が弱い気がした。

実は昨日、軽いトラブルがあって、電話のやりとりが多かった。
私は当事者ではなかったものの、間に入っていたために巻き込まれていたのだ。以前の私なら、こういうことがあった日は、怒りにも似た感情で、そのことを事細かに誰かに話さずにはいれなかっただろう。
昨日は不思議とそれほど激しい感情はなかった。

ただ、瞑想をしているときに、少しざわつくものがあった。そのざわつきは遠くから聞こえる車の音に似て、自分の思うことの後ろの方に微かに流れていっているように感じた。

瞑想の間は気にならなかったが、これは何なんだろうと考えてしまった。善い現象なのか、それとも微かでも心がざわついたことは善くないことなのか。心を煩わせるネガティブなことなのだろうか。思考をそのままにしておくのはよくないと思い、自分の心を観察し、話しかけることにした。

当事者でないにしても、何か気になってしまっている。心の痛みに話しかけ、そこから生まれる怒りに話しかける。思考の鎖を解いて、平静な日常を取り戻すのだ。

愛読書である「マインドフルネスを越えて」(バンデ・H・グナラタナ著)には、このように話しかけることを強くすすめると書いてある。

この痛みは、新しいものではない。
以前にも、このような痛みがあった。しばらくすると、痛みは消えた。
この痛みも、長く続くものではない。消えるものである。

私は痛みで苦しみ、悩んで来た。身体も心も
人生全体を通して痛みを経験してきた。
でも、すべての痛みは結局、過ぎ去っていった。
私の痛みは特別なものではない。
どんな生命にも、何かしらの痛みはある。

私はこの痛みに全神経を集中させなければならない。
ブッダは、瞑想対象として痛みの感覚を使うことをすすめられた。
感覚は、気付きを確立する四つの対象の一つである。
ブッダはこのように説かれた。
「楽の感覚は楽の感覚と知り、苦の感覚は苦の感覚と知り、
楽でも苦でもない感覚は楽でも苦でもない感覚として知りなさい」と。

私は忍耐しなければならない。
ブッダは覚りに達する前、瞑想していたとき、とてつもない痛みを経験された。
覚りを開いたあとにも、痛みがあった。
デーワダッタがブッダに向かって石を投げたとき、ブッダの足を傷つけた。
ブッダは忍耐し、ゆるした。

痛みを避けることはできないが、苦を避けることはできる。
痛みで苦しむべきではない。
痛みを利用して、苦を取り除くべきである。

自分の言葉で話しかけるようにとも書いていた。
また同じようなことがあったら、自分の言葉で置き換えて語りかけるようにしたい。

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この記事を書いた人

50代からの人生が波乱万丈でした。学び続けてなんとか生きています。

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