瞑想をしていると、禅定に入るということがあるらしい。
それにも段階があって、第一禅定、第二禅定、第三禅定、第四禅定と進むということらしい。
その第一禅定のひとつ手前が近行定という心の状態だ。
昨日の夜、妻が10時半に布団に入った。私もすぐ風呂に入り、11時頃、瞑想をすることにした。前の日と同じように、少し眠気が起こったものの、なんとか慈悲の言葉を唱え終えることができ、30分後ぐらいに布団に入ってすぐ眠ることができた。
夜中に目を覚ましたのが2時半頃。その時は、もう長いこと寝たな。という感じだったので、時間がそれほど経っていないことに驚いた。
それから朝までぐっすり眠り、6時に目を覚ましたので、もう一度、瞑想をした。寝る前の瞑想は眠気の中で行ったので、苦しさがあったが、朝の瞑想はすっきりとした気持ちになれた。
以前なら、目を閉じると、その日起こったことや、気になっていること、自分では解決できないことなどが次から次へと浮かんで来たものだが、最近は何も考えなくなってきた。時々は浮かぶが、それに気づいて、呼吸に意識を戻せるようになってきた。
遠くで聞こえる車の通りすぎる音も、前より気にならなくなってきた。意識が逸れるのに気が付くと、意識を呼吸へと集中させるようになってきた。
日常でも、前は目にしたもので気に障るものがあると、皮肉や冗談を込めて誰かに話をすることがあったが、今はあまりしない。口から出そうになると、こんなことを話しても仕方がない、という気持ちが湧いてくるようになった。
慈悲の瞑想は、心を上書きしてくれる瞑想だと本に書いてあった。言葉を唱え続けていくうちに自分の善くない心が変化していくのだと。他人や周りに慈悲の心を伝えるものとして唱えるとばかり思っていたが、自分の心が浄化されて、それではじめて慈悲の心で周りに接することができるようになるのだ。
長いこと続けてきたが、まだ入り口に近づいたばかりなのかも知れない。ただ、不思議と日常が穏やかに過ぎていくのが心地がいい。本来はそれなりの場所で、師と仰げる人について取り組むものなのだろうが、そういう時間も金もない。いまは、地道に毎日、できる時間に、生活に取り入れていくことにしよう。